2007年11月29日

岡山・倉敷・児島研修その4

さて、そもそもなぜ児島が「繊維と町」と言われるようになったのか。
児島の繊維の歴史を簡単に解説すると、かつて四国の金比羅大権現と海を隔てた児島の由加山瑜伽大権現にお参りすることが縁起がよいとされ、多くの人が児島をおとずれたことにはじまります。
そして参拝者のお土産として参道で真田紐が売られるようになったことから始まります。

お土産物の定番ということで、ノリとしては今で言うストラップのようなものでしょうか。^^
真田紐は何にでも使える万能紐といった感じのものです。
こんな感じのもので写真は現在でも作られているもの。


そのため旧幕時代より綿生産や織物業が栄え、明治には紡績工場が建ち並ぶようになりました。
当時主力の足袋や真田紐を中心に生産されていましたが、次第にその製品企画力を活かして海外にも販路を求め、更に繊維業が栄えることとなりました。
輸出されたものは主に韓人紐と腿帯子(タイタイツ)で、着物が下がらないように縛る紐などとして使用されるものでした。

そしてその分野の第一人者が與田銀治郎(よだぎんじろう:以降、與田銀)という人物です。
與田銀は明治中期、韓人紐の大量輸出はじめ、工場の近代化を進め児島の繊維業に大きな影響を与えました。
また硫化染料を発明して中国の大連にも染色工場を造るなど事業を拡大し、加工技術を押し上げました。
現在でも染色や加工技術力などが児島の強みであることを考えると、児島繊維業の基礎を作り上げた一人と言っても過言ではないでしょう。
そして昨日紹介した縫製工場があるのがこの與田銀の工場跡なのです。


與田銀工場の完成予想図


話は飛びますが児島には春と秋開催の有名なお祭りがあります。
「児島繊維祭(現、せんい児島瀬戸大橋まつり)」というのですが、県の内外から大勢の人が訪れる大アウトレット即売祭りです。
一説によると、この與田銀がそのお祭りの創始者の一人でもあるようです。

現在ではこの工場跡に併設のギャラリーでその歴史を見ることができます。
先人の軌跡はとてもフットワークが軽くユーモアで、自分たちももっと楽しくがんばらねばと、とても心強く感じました。

そして與田銀が活躍した大正時代後の児島の繊維業は、軍服や学生服の生産を中心に大量生産を行い、多大なる発展を収めましたが、時代の移り変わりと共に、各種ユニフォーム・寅壱をはじめとする作業着・カジュアルウェア・デニム・ジーンズなどへと技術は引き継がれ、今にいたります。

さて、つづきはその5で・・・

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posted by ガラクタス at 12:05| Comment(0) | TrackBack(0) | よもやま話
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